昭和五十四年九月八日 朝の御理解
御神訓一、食物はみな人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ
先日、或る教会の先生がお参りに見えて、健康の方はどうですか、と言うて尋ねて下さった。それで、おかげで此頃本当に、もう一時はきつい時があったんですけども、此頃はおかげできついのがなくなって水も、おう飲む事成りました、ち言うて話さして頂きました。腎臓と糖尿病ですから、もうなかなか食物が、腎臓に良いのは糖尿病に悪い、糖尿病に食べて良い、というのは腎臓では食べてはいけないと、まあ、お医者さんは言われておるんですけれども、私は皆さん御承知のように、も、食膳に上がってくるもの、これはもう何でも神様が、それこそ今日の御理解じゃないですけれども、命の為に造り与え給うものだ、という事を確信しておりますから、もう甘い物もボタ餅も食べればお酒も頂くと、勿論大酒大食は致しませんね、というように、そしたら向こうの先生の方が、ならやっぱ、なあんでん召し上がってですか、と言われますから、もう、あの食膳に上がってくるものなんでも頂きます。よう身体に障らんですな、と言われて、結局頂き方なんですね。
これは胃に良いの、これはこの病気にはいけない、とか悪いとかいう事じゃないです。私はこれはいけないとか、いうような頂き方こそかえって御無礼になると、こう思っております。そして、なら大体まその、まいうなら安静にしとかねばならない、という程しの、ま十年もちょっと以上になりましょうか、私の糖尿病が此頃段々おかげを頂いてきっさがなくなり、水を飲む事が段々なくなってきたというように、なら、もし医者に見せたら快方に向こうとる、という事になるかも知れません。そしてなら、もう普通から言うたら随分きびしい食物、いうなら食事療法でもなさっておられる、という事になるのでしょうけれどもね、そういう事はない。もうあれが食べたい、これが食べたいもない。も、食膳に上がってくるもの一切神様が、私の命の為にこの身体の為に下さってある、と確信してるから何でも頂く。しかも腹一杯、以上は頂きませんけれども腹一杯頂くね。
そして最近のように、もうそれこそあの、もうそれはそれは、もう糖尿病のきっさというのは、も、手も上ぎゅうごつない事きつなりますからね。もう一日の御用を終わって四時半に退がる、その時分が一番きっいんですけれども、ま神乍らだったと思うですね。あの、勤めておる間にきっいならどんこん出けんけども、退がる頃からきっくなる四時半頃から、もう部屋に退がった時にはも、いよいよもう、も、あの布団が敷いてありますから、バタァーと倒れこむ事きついです。あ、あきっさ、と言うて何時も言うてあの長くなるんです。本当にああきっさ、という事ある。もうそんな時、ああきっさ、と私が言うた途端に神様から『死神が集まるぞ』と、神様が仰しゃった。もう私はそれを聞いて以来、きっい、という事は絶対も金輪際言うまい、と腹を決めた。
それから四、五日経って気がついたんですけども、水を全然頂かん事なっとるという事と、ああきっい、と言わんで済むごと身体がきっくないという事に、もう五日位経ってから気がつきました。以来段々おかげを頂いとりますねえ。ですからこの、これはあの、芯から言うああきっい、と言う事は死神が集まる、段々少しづつ集まってくる。だから例えば不平不足と、芯からの不平不足というか、芯からの腹立ちというか、芯からのあの困った、と思う心はね、例えばお金がないから困る、と芯から思ったら貧乏神がはずれませんです。一番貧乏神が居りよかとこになるわけです、そこがね。ところが、ならどんなにお金に、なら難儀苦労しとっても神様良い修行さして頂いて有り難うございます、というような頂き方をしたら、もう貧乏神がいたたまれなくなってくるんです、という事を私は、はっきり自分の身体からあの、これは金銭だけの事じゃありません。もう不平を言い、不足を言い、そこには不平を言わなん、不足を言わんならんような事が必ず集まってくるんです。不平不足を言わなんならんような時でもです、金光様有り難うございます、結構な修行させて頂いて有り難うございます、という生き方になったら、もう不平不足を言わんで済むように、もちゃんとおかげ頂くです。これは、も一事が万事にそうなんです、というようにです、なら今日の食物訓を頂きますとです、命の為に造り与え給うもの、と仰しゃるんですから、命の為に頂かなきゃいけない、という事と同時にです、もうすべての事柄、すべての問題ね、それはね、氏子のいよいよ心の為に下さったもんだ、と頂いて間違いないですね。
どんな難儀な問題でも、悲しい問題でも、腹の立つ問題でもですね、大きなおかげを頂きたい、豊かなおかげを頂きたい、そんなら豊かな大きな心をね、まず受け物を作らなければならんね。わざわざ他所から持ってくる事はいらん、自分の前に起きてくるじゃん、神様が、私大坪総一郎に求め給うものとして、どういう事柄でも、どういう問題でもそれを、いうならば豊かな心で頂けんなら、金光様有り難うございます、結構な修行さして頂いて有り難うございます、で頂かなきゃいけん。どうして自分の上にだけ、こげんふの悪い事が集まってくるだろうか、どうしてこんな悲しい事が続くだろうか、と本当に、自分が世の中の貧乏クジは一人で引いとるような考え方をするから、いっも貧乏クジを引いとかなんならん、と私は申しますね。だから、それこそ貧乏クジは宝クジと神様が仰しゃるんだから、貧乏クジというような事をです、これは宝クジとして頂いて御覧なさい、必ず宝クジになるから。
これはもうお互いね、まあいうなら合楽理念の根本原理的な頂き方ですから、これは皆さんそれこそ簡単です、明瞭です、おかげが確かです、とここでま合楽理念のキャッチフレーズですね。ですからその、簡単です、という事はこの位簡単な事はないじゃないの。あなたの、他所から持って来る事はいらんとじゃけん、自分の前に起きてくるその事柄をですね、命の為に食物が与えられておるように、心の為に神様がこの問題を下さってあるのだから、それを合掌して受ける頂き方になるから、限りなく自分の心が豊かに大きゅう美しゅうなっていくわけです。だからおかげも、いよいよ大きく豊かになっていくのですね。
その嫌な問題とか、困った問題を向こうの方へ押しやってしまうから、何時まで経ってもおかげにならんですね。早くそれから逃れたいと思うから、何時まで経ってもそれこそ貧乏神なら貧乏神がはずれんのですね。だから、それば有り難く頂く気になったら、いうなら貧乏神と福の神と入れ替わってくるです。福の神が私共の心の中に宿りよいような心の状態を何時も作っていく、その心を教祖は「和賀心」と仰しゃるのです。和らぎ喜ぶ心なんです。これには健康が宿る、財産が宿る、人徳がつく、神徳がつくという事になります。
私は、最近ある事柄の上に、例えば腹の立つような、本当に芯から腹の立つような、にくじ、のような事をしたりする人がありますよね、そすと今に見よれ、と言ったような心があったんです。神様の働きがどういうもんか、今に見よれ、と言ったような、あのう、があったら、昨日総代会で久富正義先生が発表してましたが、確かにそういうような事が自分の周囲にはあるです。同業者なら同業者でも、例えばなら久富建設なら久富建設を、まあいじめるような、かてのけるような、意地の悪いとがおりますよね。そげんとは、も、コロッと死んだりです、不幸な事になったり、倒産したりする。これはもう間違いないですばい、ち、だから正義先生それをもういっちょ、そげんとが助かるごたる頂き方にならないかんばいと言うて、ま話した事でしたけれどもね、私共もやっぱそうでした。
もう本当ですばい、一遍あの椛目のね、もうあのう布教そうそうの時分の事を一遍思うて御覧なさい。もう本当に邪魔ばっかりしょつたのが、もうそりや本当に、もう本当に気の毒かごと、ろくな目におうとらんですね。そいばはっきり言うと、もっとはっきり分かるんだけれども、だから、これは例えば信心させて頂くものが、こういう事を思うと、いうならば相手にそういう事が起こってくるからね、やっぱし相手もそういう、いうならば仇役の人でも愛する心と言ったような、どうでも本当の事が分かって立ち行きますように、と言うて願ってやれるようなね、それこそ、人の事を願える私になろうというのは、自分の好きなものの事だけを願う、という事じゃないね。
今度、信徒会のテーマがそうでしたね。今度、合楽の婦人総会がございます、そのテーマが今度それ「人の事が祈れる私になろう」自分が好きなもんの事なら誰でん祈る、のだから自分の仇役どんごたる人ですら、その人の事を願い祈らして貰えるような心の状態を頂け、と言う訳なんですね。自分の周辺のかかわりあいのあるね、と人達の事が祈れる、誰も彼もというわけにはいかんね。かかわりあいのある人達の事を祈れる、願えれる私達になる、心が豊かに大きく美しゅうなる。まあ、あれがいっちょ罰かぶればよかとこれ、てんなんてんち、言うような思いは絶対したらいかんですばい、信心させて頂く者はほんなこて、こっちの信心が高められてくるときゃ相手が罰かぶる、必ずほんなこっですよね。こちらに信心もなんも高められていかんなら、言うたっちゃ思い損ですけどね。こちらの信心が段々高められてくると、例えば私がそういうふうに、もうあげんとが罰かぶりゃええが、と思うとっともう本当に、も、めのさきざんに罰かぶるです。だからこれはいけんなあと、山口に踊る神様ち、言うとがあったでしょうが、この人はやっぱそういう方だったそうですね。
どういうあのう、その大臣級の人と会うでも自分の思うようにならんと、あんたそげな事言いよると死ぬるよ、私にたてつきよるとあんた死ぬるよ、と言うてコロッと死んだ例が幾つもあるわけです。だからもう、もう皆がそん、怖がったわけですね。その人の言う事きかにゃおれん、と言う事なったね。だから、信心ちは不思議な世界ですから、なら私共の今信心はそれこそ、それこそ仇役の人の事でも祈ろう願おう、という事にならなければね、だから私はね、いうならば、神の権威にかけてね、神の権威にかけて、どうぞ神様そういう働きを示し現わして下さい。それも怪我したり、死んだり、ち言う事ではなくてね。神様の本当にこういう働き、力を持ってござるというその権威にかけて、どうぞその働きを示して下さい、という私は願いを、ある問題に持たして頂いておったら、神様から御心眼に『新聞紙であの兜ば折るでしょうがね、子供の時に折ってかぶったでしょう、新聞でこうやって兜ば、そしてから竹切れ持って、こうやって戦争ごっこするわけ』そういう場面を頂いたです。ははあ戦争じゃなくて、これは戦争ごっこだなと、『それを、私とある人がその様子を見せて頂いとりました。まあ、すさまじいまでの神様の働きと感心して見せて頂いとりましたら、その人が座布団を敷いとったのを、座布団をのかして勿体ない、勿体ない』と言うて見ておるお知らせを頂きました。
どういう事と思うですかね、その神様の余りに如実にです、そういう働きを見せて下さっておる、その事がすさまじいまでにその働きそのものがです、勿体ない、座布団どん敷いては見ちゃおられん、というて座布団を敷いて、いうなら子供の、ま戦争ごっこを見ておると言うお知らせを頂いた。この位の事ならばそれで分かる、という事になればいいだろうと、私は、ま思ったわけですけれどもね、そりゃ神様のね。昨日の御理解じゃないですけども人間心を使うたら、も、おかげはもう頂かれんですね。そ、頂くおかげは、しかどんもないおかげです。どうぞどうぞ、と言うて頼むおかげですから、たいしたおかげにはならんです。も、人間心の強い人はお徳は受けられないです、間違いなくお徳は受けられないです。
もう一切を神乍らと受ける生き方ね、その一切を神乍らと受ける生き方を、今日は食物訓によって、私の食膳に出てきた物はです、これは例えば糖尿病にはいかん、腎臓にはいかん、と言うのであってもです、それを合掌して頂くという気になると、それが命の為に、いわば私の糖尿病は、ま治らないと言われておる糖尿病が、治ってきたのじゃなかろうか、きっい、という事もなからなければ、水も頂かんようになった、という事実からそう思うんです。ですから一事が万事におなじ事、それが事柄の場合であっても、氏子の心、豊かになる心が強くなる事の為に、一切の問題があるのぞ、難儀な問題もそうなんだ。
いよいよ、心に力をつけて下さろうとする働き以外にはない。と言うて他所から、きっかっばもって来んなんとか、苦しい事ば他所から拾うてこんなんとかいうのじゃない。自分の前に起きて来るという事なんだね。自分の前に起きて来るその問題を合掌して受ける気になるとです、不平不足言わなんような時でも、不平不足を言うとその問題が、いよいよ不平不足を生んでいくわけなんです。言わんならんような事を生んでいくわけ、だから有り難うございますと言えんなら、結構な修行さして頂いて有り難うございますという事になるとですね、そういう難儀な問題が起こって来んようになるという事をね、食物訓から今日は頂いて頂いたね。いうならアレンジして頂いたわけね。
これは食物だけの事じゃない、一切の問題がそうね、どういうような、例えば問題、それこそあん奴がいっちょ罰かぶりゃよかが、というような腹の立つような問題でもです、こっちが合掌して受ける、という気になるとそこに神様の、いうならば働きがちゃあんと起こってくるという事ですね。それも相手が助かるように、と言う祈りであり願いで、勿論なからなければならない。それをこっちは知らんもんですからね昔は、ただ神様のあらたかな、そりゃまあ、私の話どん邪魔、一遍した人がありましたがね、もう私がお話を終わって、あの出て来た時にはもう口がこんなに腫れ上がっとったです。私が話しよるここでじゃんじゃんその、しょう、ひちりき、の稽古がありよりましたが、そいば吹くもんですから、お話にならなかったんです、出来なかったんですね。して、もうどうした人じゃろかとその時分、私が思い乍ら話を続けさせて頂いて、話が一切れついた時には、フスマを開けて入って来た時には、こんなに腫れとった。
そして神様はね、そのしょう、ですね、『しょうと口のここの間にイガ栗をこうやって、はめておる処』を頂いたです、イガ栗を。そしてから神様は、『口ばたにこう、こうやって胡椒ば付ける処』を頂いたです。ははあ成程、イガ栗でジガジガしょるとに胡椒まで付けられとるけん、こう腫れとるわけです。そいけん私はその人に言いました。「あんたは、も、ひょっとすると、ここの教会の御親戚の方じゃから、本当言うならお道の教師にでんお取り立て頂かなんならんような人かも知れないよと、それ例えば、私位な者の話でも、それこそ、あの邪魔するような事をされてはいけん。明日はお結界で、その事をようくお詫びしてごらんなさい。すぐおかげ頂きますよ」と言うて、あくる朝、朝の御祈念に参って来た時には、もうおかげ頂いとったね。だからこちらがね、どうした奴じゃろか、と私が思うたからそう言うこと。
だからもう、私は絶対どうした奴じゃろかとか、も、あいが、いっちょ罰かぶりゃええがとか、ちいう事はもそれね、あの椛目時代から、こちらは絶対思わない事にしております。して、そういう係わりあいのある人を祈る事にしております、助かるように。そげな根性の悪い事言いよったら助からん、それでは、おかげにならんからね。したら今申しますようなおかげ、いわば普通からいうならば、どうした奴じゃろかと言うような事でも、その人の事を祈る気にならせて頂いた。それでも、それではいけんから神の権威にかけて、どうぞしるしを見せて下されと言うて願うたら、今お話を聞いて頂いたようなお知らせを頂いた。それこそ神の働きを、丁度お芝居見るようにしてから見ておった一人の人が、座布団を取って、とても座布団どんひいちゃ、この勿体ない見られん、という位に素晴らしい事がその場におこっておった。
私は神様のね、信心というのは神様を信ずるという事だと思うんです。だからお願いをしておきてきた事は、も神愛です。そのままね。お願いしとって、どうしてこげな事がおこって来たじゃろか、という事は絶対ないですね。命の為に下さる、心豊かに美しくなる事の為に下さる、そこに神様が、麗しい豊かなおかげを下さろうとする働きが、その次には起こって来るわけでございますね。
食物は、みな人の命の為に天地の神が作り与え給うもの、問題、難儀、腹の立つような事柄であっても、悲しい事であっても、それは氏子の、いよいよ心豊かに、心に力を頂く事の為に、天地の神が作り与えて下さったものだ、という頂き方が一番間違いのない、正確な頂き方ですよね。 どうぞ。